『炎上』(1958年 日本)
三島由紀夫×市川崑×市川雷蔵が追求する「美」のカタチ
今朝の1日1映画は『炎上』(1958年 日本)を鑑賞。
昭和19年春、溝口吾一(市川雷蔵)は田山道詮老師(中村雁治郎)が住職を務める京都の驟閣寺(しゅうかくじ)に、徒弟(とてい)として住み込むようになった。
吾一にとって驟閣はこの世で最も美しいものであり、信仰に近いまでの憧憬の念を抱いていた。
だが戦後、観光地と化した寺の経済は潤い、老師の生活も一変。
吾一は違和感をつのらせていく…。
市川雷蔵が初めて挑んだ現代劇出演作は、三島由紀夫の傑作「金閣寺」を、名匠・市川崑監督、撮影・宮川一夫との最強コンビで挑んだ意欲作。
キネマ旬報ベストテン、ブルーリボン賞で主演男優賞に輝くなど、絶賛を浴びた作品です。
これは何から書いていいのか分からないくらい深く心に刻まれる映画ですね。
当時時代劇で人気絶頂の花形スターだった市川雷蔵が、脚本を読んでぜひやりたいと周りの反対を押し切って挑戦した、国宝に火を放つ吃音の青年という難役。
これまで見てきたいわゆる“型”のある時代劇とは全く違って、この映画にはノーメークで内向的な性格の青年を演じる別人のような市川雷蔵がいて、それもその表情の奥に、この青年の一生を背負ったぐらいの深みがある。
市川雷蔵という変幻自在な役者の表現力にまた一つ魅了されています。
原作者・三島由紀夫がこの映画を見て傑作と絶賛し、雷蔵もこの作品で文芸作品に出演したいという役者魂に火が付き、その後三島原作・三隅研次監督『剣』に出演。
三島由紀夫と市川雷蔵、お互いを気に入ったというのが、なんか分かる気がするんです。
理想的な美を追求する姿勢が似ているというか。
この作品の主役溝口吾一も、美や体制が永遠ではないことや、理想と現実の違いにさいなまれる役で三島を象徴している気がします。
ボディビルなどで己の美や思想的に理想を追求した三島と、私生活を見せず、仕事には貪欲で、まじめで努力家、舞台やカメラの前の経つと別人になる雷蔵は方向性がなんか近いのかなと。
そこに市川崑の美しい映像が加わると、揺らがない美が完成するんですよね。
技法として一番印象的なのは、現在のシーンと回想シーンとのカットつなぎにシームレスな方法を用いていること。
色やフィルターなどを使って、ここから回想ですよーと回想シーンを分かりやすくするのではなく、わざと現在と過去を芝居がつながっているようにカットをつないであって。
映っている人はそのままで、背景だけがクロスフェードで変わるというシーンも何か所かあって、どうやってるのかなーと興味深々でした。
そのことによって白昼夢のような雰囲気が醸し出され、疎外感を受けている主人公の心象を強調できる。
小説は主人公の心情を文章化できますが、映画は基本的に(独り言やナレーション以外は)行動や表情でそれを表さなきゃいけないというのがあって、なかなか小説の映画化は難しい部分がありますが、この作品はそこがこういった技術によってある程度カバーされている気がします。
すでにカラー映画の時代にわざとモノクロで撮って、シネマスコープの大画面で見せているこの映画。
カメラマンは黒澤映画などで有名な宮川一夫。
アップショットではその感情がリアルに伝わり、キラキラした火の粉までが印象に残るほど美しいです。
「金閣寺」はいろんな人が舞台化(最近は宮本亜門など)してますが、映画化が意外にもこの作品含めて3作品と少ない。
この作品が素晴らしいので、映画化しづらいのかな…。
仲代達矢の存在感も素晴らしい。
ほんとに見てよかったです。
↓予告編