『秋刀魚の味』(1962年 日本)
固定カメラ、無表情…だけど視線は動く動く!
抑えた演出が共感を引き出す“小津マジック”を堪能する名作
今朝の1日1映画は『秋刀魚の味』(1962年 日本)を鑑賞。
平山(笠智衆)は妻に先立たれ、家事一切を娘の路子(岩下志麻)に頼っていた。
同窓会に出席した彼は、酩酊した恩師(東野英治郎)を送っていく。
そこで会ったのは、やもめの父の世話に追われ、婚期を逃がした恩師の娘(杉村春子)。
平山は路子の縁談を真剣に考えるようになるが…。
老いと孤独という深刻なテーマを喜劇的に描いた小津安二郎監督の遺作です。
これまでに何度か見ていますが、見るたびに新たな発見がありますね。
まず監督の代名詞である、畳に座った時の目の位置にあるカメラのローアングル。
座っている人が立ったら、ズームアウトで画角を広げるのではなく、ミドルショットに切り替える。
2人以上映っている場合は、カメラアングルはそのままで、立った人の頭はフレームから切れたまま演技を続けます。
演技は無表情・無感情。
ですが、視線は動く動く!
ここまで徹底した固定カメラと無表情の演技は何を写し出すのかというと、その視線の動きの奥底にある「気持ちのゆれ」なんですよね。
映画の前半は、画面に映っている当事者が自分の話をするより、当事者がその場にいない時に第三者で事が進みます。
当人(路子)の前では言いづらい結婚についての「噂話」を周りの人がすることによって、その人物を他己紹介することになり、噂の人物がどういう人物なのかを浮き上がらせます。
映画後半で、当人を前に対峙し、事の真相を直接的に聞く。
その時の様子がもう気まずくって、何とも言えない裁判のような空気を作り出す。
問い詰められた方は冷静を装うけど、視線が動き、その内心が観客に伝わる。
観客はその内心を想像し、自分の経験や心理を照らし合わせ共感する、という非常に計算された演出がなされていることに気づきます。
場が感情に振り回されず、そこに存在し続けるんですよね。
風景や室内をただ映すカットが多いのも、そこに存在する「空間」や「時間の流れ」を感じ取れます。
人間って情報量が少ないと、そこに自らの知識や経験から情報を引き出し、埋めていくという作用があると思うんですが、まさにその作用を利用した、「観客が補うことによって完成する」映画な気もします。
画面では淡々と進むのに、見ている者の心はジェットコースターのように波立つ。
誰もが共感できるミニマムな家族の話の裏側には、小津マジックともいうべき演出があるんですねぇ。
秋刀魚が美味しくなる季節にまたこの映画を見て、“ほろ苦さ”を味わいたいです。
↓予告編