カトリーヌの「朝1日1映画」

朝の時間を有意義に♪

『西鶴一代女』(1952年 日本)

By Directed by Kenji Mizoguchi, produced by Hideo Koi and Kenji Mizoguchi, written by Kenji Mizoguchi and Yoshikata Yoda. Distributed by Link

世界の監督に影響を与えた元祖「長回し」監督。
悲劇的な運命をひたむきに生きる女性に勇気づけられます。

今朝の1日1映画は『西鶴一代女』(1952年 日本)を鑑賞。

老醜を厚化粧で隠し、道にたたずむ娼婦お春(田中絹代)。
羅漢堂に入った彼女は、さまざまな仏像を見つめるうちに、今まで関わってきた男たちのことを思い返していく…。

井原西鶴の『好色一代女』を原作に、封建制度下で自我を貫こうとした女の悲劇的流転の人生を巨匠・溝口健二監督が描いた文芸映画。

ヴェネツィア国際映画祭では国際賞を受賞。

後のフランス、ヌーヴェル・ヴァーグにも多大な影響を与えた作品です。

時代劇ということで構えてたんですが、これは面白いですね~。

冒頭の、寺に何十体もある羅漢の顔に、過去の男性の顔がダブる…っていうシーンからしてもう人生劇場の幕開けですわ。

自由恋愛ができない時代に格差のある若い武士と恋の炎を燃やしたばかりに、反感を買い、表面的な美しさのみを評価されて売られ、嫁がされ、利用され…とモノのように扱われ、次々に大変な目に合う主人公お春。

でも歯向かったり立ち向かったりするのではなく、その社会の荒波の中で自分なりに精一杯ひたむきに生きていく。

その姿が「性格のいいスカーレット・オハラ風と共に去りぬ)」というか、「静かな朝ドラヒロイン」のようで、決して強くないんですが、傷つきながらも適応しながら生き抜くしなやかな力があって、「そう、そう」と共感するシーンもあり、すごく勇気づけられます。

技法としては、言うまでもなく「長回し」。

長回し」と聞くと、単調な場面が続くのかなと思ったら大間違い。

人が動けば、カメラも動く。

1カットで前後左右はもちろん、上下斜めへ自在に人物を動かし、カメラも人物の動きに合わせて滑らかに動きます。

なので、屋外はもちろん、室内でも階段の上下の行き来や、部屋を3つぐらい通り抜けたりしながら演じるということも多々。

ドリー(タイヤ付きの台車などでカメラを水平に動かす)やクレーンを用いたショットで自由自在の動きをしたカメラがなめらかな動きで人物を追います。

人もカメラも常に動いているので、カットが長くても飽きないんですよね。

画角はほぼロングショット~フルショット。

いちばん近くてもウエストショットで顔がアップになるショットはありません。

ショットを割ることで演技の流れが中断されるのを嫌い、クローズアップやカットバックなどの技法を使うことで「ごまかし」が利き、完全な演技を求めることができなくなると考えたため。

役者の一連の演技から生み出されるリアルな感情を大事にしたのかもしれないですね。

確かにテンポはスローですが、リアルタイム観があり、見る者の感情をじっくり時間をかけて引き出すというのには有効な気がします。

また、溝口監督は絵コンテを作らず、撮影現場でリハーサルをする俳優の動きを見ながら、カメラのアングルやポジション、ショットの長さなどを決めたそう。

動きを役者と一緒に作っていったということが分かります。

印象的なのは前半の若い武士に言い寄られるシーン。

お春が家の中にいると、武士が中庭から声をかけ、襖を開けて、恋心を打ち明ける。

お春はなかなか心を開かないですが、逃げるお春を追って、武士は中庭から右の部屋、また右の部屋と横に移動しながら襖を開けていく。

ついにお春は外に出て、武士と同じ“高さ”に降り、武士の手の中に(気絶する)という動き。

また出ました「高低差」。

身分の格差を高低差で表し、その一線を越えるシーンを入れ、この恋の意味を表現しています(『タイタニック』、『パラサイト~半地下の家族』も同じ高低差映画)。

しなやかにたくましく生きる主人公、リアルで流れるようなカメラワーク。

そこに美しい主人公田中絹代がそろうと、ふわっとした品のようなものが生まれる。

撮影現場では厳しいと有名だった溝口監督ですが、人間の所作をありのまま捉えるそのまなざしに優しさを感じます。

↓予告編

 
 

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